本作を観終え劇場を後にする際に、最初に感じた映画への印象が”平穏”や”安心感”、それらへのあこがれのようなものであった。
『望み』のエンディングでは、春を迎えた街の上空からの景色が映し出され、森山直太朗の唄う「落日」が流れていた。
これらの要素が清々しさを演出し、物語の中に積もりに積もった不安感や絶望感を浄化してくれているようにさえ感じたのだ。
果たして本作が物語を通して、また、ラストの結末が伝えたかった事とは一体何だったのだろうか。
物語の大きなテーマと小さなテーマのようなものが見えた気がしたので、今回も詳しく考察していくことにする。
映画『望み』がラストの結末で伝えたかった事とは

出典:『望み』公式サイト© 2020 「望み」製作委員会
本作が表面的に伝えたかったことは様々考えられるが、物語の根本をとらえると、もしも家族が犯罪の被害者もしくは加害者となってしまったときに一体どうなってしまうのか、どのような受け止め方をするのかについての一つの提案的なものであることは間違いない。
通常の少年犯罪とその家族を結び付けた物語であると、加害者家族もしくは被害者家族、またはその両方に焦点が当てられていることが多いが、『望み』では一つの家族が被害者と加害者の両方の立場に置かれそうになっているところがその面白さ、難しさとなっている。
物語では高校生の殺人事件が描かれており、もしも身内がそのような事件を犯したとなれば、現代社会における家族への影響は計り知れない。
当然のことだが被害者となってしまった場合、この物語では”死”を意味するわけなのだから両親にとっては計り知れない悲しみ、兄弟を失う妹は心に深い傷を負うはずだ。
このような映画における状況というのはつまり、私たち観客に対して
「愛する家族が重大犯罪に加わり人殺しとなるか、重大犯罪に巻き込まれて亡くなってしまうとしたらどちらを選びますか?」
と尋ねている訳だが、そんなことを尋ねられてもすぐに答えることはできないし、答えを選ぶにしても葛藤と戦うものがほとんどであるはずだ。
ではこのような難題に対して物語としてはどのような答えを導き出したのであろうか。
物語のラストでは、結局、岡田健史演じる規士(たかし)は遺体となって発見されるわけで結末的には被害者となる物語が選ばれた。
つまりそちらの結末であるからこそでしか伝えられない何かがあるという事なのだが一体何なのだろうか。
非常に複雑ではあるがそもそもこの物語では規士に全てが委ねられていた事が重要なポイントであると考えられる。
そしてそれらと同時に家族の心情が重要なポイントである。
父と母、妹の心情は一体…。
本作を観ていて最初に感じたのは、この物語、どちらの結末に転んでも必ず家族3人のうちに誰かしら救われない人がいるという事だ。
そもそも物語の設定が究極すぎて一体どのような結末となるのかと恐れながら観ていたことは確かだ。
同時にこのような状況においてどのように皆が救われるのかと考えながら観ていた。誰か救われない人がいたとすれば物語が昇華しきれないような気がしたからだ。
しかし終わってみるとかなり納得のいくものとなっていて個人的には非常にすっきりした。
家族の物語でもあった『望み』では父と母、妹の心情は一体どのようなものであったのか整理すると分かりやすい。
まず、父(演:堤真一)であるが、彼に関しては息子に対して亡くなっていて欲しいとまではいかなくとも加害者である可能性もあると同時に、被害者である可能性を決して否定せず、息子が悲惨な罪を犯すはずはないと心の隅で信じ続けていた。
息子が犯罪者となった場合の社会的な影響を恐れて被害者であって欲しいという思いは多少あったはず(途中までは五分五分の感情で、生きていて欲しいものの、重大犯罪を犯したような息子は厄介)だが、ラストまで見てみると、それよりも息子が重大犯罪を犯すような人間ではないと信じていた。
また、息子が臆病であることも把握しており、特に凶器となった可能性のある刃物が部屋にしまってあったのを確認すると息子を信じる気持ちは強固となっていった。
続いて母(演:石田ゆり子)については、常に息子が犯罪者であってほしくないという感情はあったはずだが、それよりも愛する我が子が生きていて欲しいという願いが勝っていた。そう思うのも無理はなく自然なことである。
逆に犯罪者であるのなら単純に亡くなっていて欲しいという感情になってしまっていたとしたとしたら、そちらのほうが恐ろしい。
また、人は誰しも生きていさえすれば何とかなるとよく言われるが本作においてはそこまで単純ではないことも事実である。現代社会においては、生きているだけでかなり理不尽が起こることも事実であるからだ。
次に妹についてだ。彼女に関しては明確な立場を表しており、兄が被害者であってほしいと明言していた。
そう思うのも無理はない。現代社会において人殺しの家族となれば、社会からの風当たりは強い。それも容赦はない。
役柄的にも中学生という事でネット社会がネイティブな年代であるため、そうした風当たりへの理解は深かったであろう。
このような感情をそれぞれが抱きながら結末へと物語は進んでいく。
規士が遺体となって発見されると、もちろん父と妹は深く悲しんだであろうが、結局は息子を信じた父親は救われ、殺人犯の妹とならなかった雅も救われた。
しかし母はどうだろうか。
彼女は救われなかったのかと思えてしまうが、事件のすべてが明らかになったときに規士は私の知っている心優しい規士だということを語っていた。
つまり母親の知っている心を持った息子のままで規士が旅立ったことを知ることで、彼女は救われたのだ。
彼女が信じていた息子は息子のままだったという事が明確にわかったのだ。
ラストの言葉を振り返ると、どこか妥協のようなものを感じてしまうがある程度は救われたのではないだろうか。
彼ら3人は規士という信じていた家族に裏切られなかったことによって救われ、悲しみを背負いつつも残された家族の力で乗り越えていける力が残っていたことがわかる。
立派な家の中に響いた”ただいま”と”おかえり”の言葉がそれを示していた。
『望み』が伝えたかった事は、信じるものに裏切られないことの重要性と、罪の意識よりも、例えそれが深い悲しみであっても支えあって背負っていくほうが、人は前を向く事が出来るという事ではないだろうか。
社会的制裁の酷さについて考えさせられる
ここまで物語の根幹的な部分について考察してきたが本作でもう一つ印象的だったことが、社会的制裁について現実的に描かれていたことだ。
『望み』では捜査に支障をきたす可能性があったことから警察は正しい情報を、事件の全容が明らかとなるまであまり公表せず憶測のみが独り歩きしていた。
当然、捜査の障害となる場合、捜査情報を公開しない事は仕方のないことだ。
しかし改めて人間は自らの興味のあることが、それが真実であっても誤った情報であっても確認せずに食いついてしまう特徴があるところは醜いなと実感した。
この物語においては、少年犯罪であることに加え犯人が逃走中で、更に行方不明者も出ているため、リアルタイムで事件が進行しておりSNSでは誤った情報による誹謗中傷があからさまに行われていた。
現実の社会でも同じような状況となれば間違いなくネットは悪い意味で盛り上がるに違いない。
物語では実際に、規士はSNS上で犯人だと疑われていたため、家には生卵が投げつけられ、誹謗中傷の落書きまでされていた。
この憶測によって家族も地域住民からもひどい扱いを受ける事にまでなってしまっていたのだ。
間違った情報によって、度合いは様々だがこのような誹謗中傷が行われているという事を忘れてはならない。そんなことを実感させられる映画でもあったはずだ。
『望み』では真実を追求していく映画ではあったが、他人から得た情報=常に真実ではないという事を改めて強く感じ、物語で起きていたことはネット社会における弊害であると実感した。
果たして、俳優陣の演技が特に素晴らしく、それによって引き立たれる観ていて飽きない物語、最高だった。
やはり、堤幸彦監督の映画は素晴らしい。