ハッピーエンドかバッドエンドか。
果たして本作はどちらと言うことが正しいのだろうか。
ダウン症の少年と、ゲイカップル。
誰もが生きやすい社会を目指す現在でもネガティブに捉えられがちなテーマを、1970年代を舞台にひとつの映画に落とし込んでおり、特にラストの結末は非常に考えさせられる作品です。
最近だと、『ピーナッツ・バター・ファルコン』という同じくダウン症の少年とそれを取り巻く環境をテーマにした映画が公開されており、通ずる部分とそうでない部分があったと思うので本作と比較しつつ考察していきます。
映画『チョコレート・ドーナツ』あらすじ-「切ない」という言葉だけで片付けて良いのだろうか
まずは本作のあらすじを簡単に振り返っておきましょう。
あらすじ
舞台は1979年。歌手を目指すルディはポールと出会う。
ルディはアパートの同じ階に暮らす、ダウン症の少年マルコの母が逮捕されたために彼が施設へと預けられてしまう事を知る。
ルディはマルコを引き取ることを決め、ルディ、ポール、マルコは3人で家族同然の幸せな生活を送る。
しかし、周囲の視線は冷ややかで結局裁判沙汰となりルディとポールはマルコと離れ離れとなってしまう。
薬物中毒の母親はマルコを育てられるはずもなく、マルコは家から脱走してしまう。
予告編
物語では彼らが愛を与え、愛を与えられることによって心に開いた穴を埋めあっているように感じました。
一方で観客である私たちにとってはラストで心にぽかんと穴を開けられてしまったような気がしました。
ここからはラストの結末を中心に考察していきます。
映画『チョコレート・ドーナツ』【感想】ラスト結末について考える

出典:Rotten Tomatoes公式サイト
社会的マイノリティである彼らの目線で描かれた『チョコレート・ドーナツ』でもっとも関心が高い部分、つまりハイライトはやはりラストの結末です。
まるで、当時の社会の答えを正直に持ってきたかのような結末で、それは美化するわけでもなく、現実を突きつけられるものでした。
ゲイのカップルが明らかに自らの立場による差別によって裁判では養育者として認められない。挙げ句の果てにマルコと共に過ごすことが困難となり、結果的に1人孤独なマルコは橋の下で亡くなってしまう。
悲惨過ぎる結末です。
全て自らと異なるものを頑なに受け入れない心の狭い人達によって引き起こされた結果です。
本作の舞台は1970年代ですが、半世紀近く経った現在でも『チョコレート・ドーナツ』が出した答えと、状況はあまり変わらないのではないでしょうか。
自分と異なるという理由だけでなんの罪もない人に対して冷ややかな反応を見せる人々、育児放棄、差別、偏見、そして彼らを保護するためには満足に整わない環境。
『チョコレート・ドーナツ』がラストで出した答え、社会に対するジャッジは今を生きる人々にとっても考えさせられる良い機会になりうるものです。
認め合う心を持つこと。単純ですがいつの時代もこうも難しいのですね。
実話から着想を得た物語
『チョコレート・ドーナツ』は1970年代のニューヨークのブルックリンでゲイの男性が育児放棄された障害児を育てたという実話に着想を得て作られた物語です。
1970年代のアメリカはちょうどLGBT運動が行われるようになっていった頃で、社会的に議論の対象となりました。
それでも当時は今と比べると非常に難しい社会であったと言えます。
『チョコレート・ドーナツ』でも描かれていましたが、彼らにとっては決して生き易い環境ではなく、社会の陰に隠れてひっそりと暮らしている印象の方が圧倒的に強いです。
また、そもそも同性間の性交が禁止されていたり、性的指向に対する意識も薄く、今で言う、レズビアン、バイセクシャルは全てゲイとして一括りの言葉で表現されていました。
当時から始まった運動は現在も継続して行われており、長い時間向き合わなければならない問題です。
実話を基に「もしも、ゲイのカップルが養子としてダウン症の少年を受け入れようとしたらどのような問題に直面するだろうか」そんなことを考えて描かれた本作が告発したことの社会に対するメッセージ性は非常に高いと言えます。
世の中に蔓延る「差別」に対する訴え
先述したように、考えなくてもまだまだ世の中にはあらゆる差別が存在し続けています。
なぜなら、人間には異物を嫌う性質があるからです。
皆がそうではないですが、少なくともそのような傾向はあると思います。
『チョコレート・ドーナツ』では、社会に蔓延るあらゆる差別を告発したかのような物語となっていました。
障害者差別や性的指向に関する差別の他にも、弁護士として登場した黒人男性に対する人種差別なども語られ、様々な問題を物語の一部として扱っていました。
最近だと、アメリカにおいて黒人差別への抗議運動「Black Lives Matter」も活発になっており、アメリカ人の大多数がその活動を支持しています。
本作を観て、自分と異なるものを受け入れることのできる人が増えることが重要で、そういう社会づくり。偽善でもいいからそういう意識を作っていくことが大事だと思いました。
自分にとっての当たり前は他人にとってはそうでないことも多いですからね。
『チョコレート・ドーナツ』と『ピーナッツバター・ファルコン』の似ていて違う2作品※ネタバレあり
※以下では『ピーナッツバター・ファルコン』のネタバレをあり
『チョコレート・ドーナツ』と『ピーナッツ・バターファルコン』はどちらもダウン症の少年をとりあげた映画でどこか近しい部分と、そうでない部分が存在しました。
共通点はダウン症の少年とそれを包み込むような愛を持った大人たちが登場すること。
そして大人たちは社会的な孤独感を感じていること。
異なる部分は、『チョコレート・ドーナツ』はバッドエンドで『ピーナッツ・バターファルコン』はハッピーエンドである事です。
ハッピーエンドのおとぎ話が大好きなマルコの『チョコレート・ドーナツ』がバッドエンドであることはなんだか皮肉ですね。
『チョコレート・ドーナツ』の方がより、現実を突きつけられる物語です。
日本での公開当初、1館のみの公開であったことが意味することとは
驚いたことに、本作は日本公開当初、たったの1館のみでの上映だったそうです。
アメリカでは非常に高い評価を得ていた映画であったにもかかわらず、そのような状況となっていた理由のひとつに、物語の内容がダウン症の少年とゲイカップルに関するものであったことによる宣伝のしづらさがあったのだとか。
正直、日本では社会的マイノリティの方たちが伸び伸びと生きられる社会づくりはまだまだ出来ていないと思います。
なんだか日本では空気を読みすぎて、いつも躊躇して一歩踏み出せない部分がありますよね。
人種差別やLGBTQ、女性蔑視(#Metoo運動など)に対する運動も、何故だかいつも海外から始まって日本に届く気がします。
そんなに簡単な問題でもありませんが、まずは『チョコレート・ドーナツ』のような映画を観た時に少し考えてみるのも良いかもしれませんね。